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Interview「代表が語る」


起業家インタビュー第8回 松尾 卓也氏 [1/3ページ]

松尾 卓也 (Takuya Matsuo) 氏
EBS (UK) Ltd. 代表取締役

 

 

 

インタビュー&撮影:2014年2月28日 

自己紹介によるプロフィール

生まれて高校まで長崎市、大学から東京、30歳半ばでロンドンにて独立起業。同じ長崎市出身の福山雅治やさだまさしと競う(何を?笑)。
イギリスとの係わりは対英投資誘致の仕事で1983年から。1990年に独立し、調査コンサルの会社EBSをロンドンで起業。小舟で船出し、暴風雨にあいつつも今だ沈没していないのが不思議。沈みそうで沈まない。2015年は起業して四半世紀。なんとかいけそうだ。食と酒をこよなく愛し、イギリスではワイン、日本では日本酒。逆の場合もあり。旅と本も大好き。イギリスの田園、日本の田舎。その他もろもろの国。しかしやはり故郷の長崎はよか。在英国長崎県人会もよろしく。



廣綱:本日はどうぞよろしくお願い致します。どのようなきっかけでイギリスにいらっしゃったかということから、伺わせていただけますか?

松尾:最初は、東京ベースでリサーチコンサルティングの仕事をしていました。海外から日本に進出するにあたっての市場調査や、Feasibility Study:事業を立ち上げる前の調査等をしていました。1970年後半ぐらいからはじめて、1983年にはじめてイギリスに来ました。

海外のクライアントの一つが、UK Trade & Investment(UKTI、当時はIBB)下にあった北イングランドの開発公社で、Yorkshire & Humbersideの日本代表も兼ねていました。 80代のはじめ、日産がイギリス進出を検討していました。当時サッチャーさんも日産に(イギリスに)是非と営業をしていたのですけど(笑)、私の最初の大きなプロジェクトはその日産のプロジェクトでした。当時は、英国に30数か所候補地がありました。そのうち8か所に絞られて、更に3か所にしぼられました。まだ(私のところは)候補に残っていたのですけれど、Humber Riverがある、欧州大陸に輸出アクセスよい、大きな土地のサイトがある等で、日産のチームを、現地側で対応するメンバーの一人として、イギリス側の対応チームの中でコーディネーションとかアドバイスをするため、最初にイギリスにきたのが1983年です。

その後、他の仕事もしつつ、アメリカ出張、市場調査とかに行ったりしていましたが、ご存じのように、80年代の後半から、もうすぐEC統合、1985年にはプラザ合意でものすごく円高になり、また、アンチダンピングなどもあり、日本企業は輸出ではもう難しい、なので、現地にいって生産する、要するに、現地化してEUのメンバーにならないとダメだということで、怒涛のように日系企業が欧州に進出していました。特に、製造業です。当時は、イギリスが英語圏ということもありものすごく人気でした。フランスはEUの会社ではないと進出を反対していましたが、それをサッチャーさんがサポートして、日本企業を守ってくれました。そういうのは心強かったと思います。

結局のところ、もう1回、最終選考があり、最終的に北東イングランドのほうに行ってしまいました。大きなディールを逃してしまったのですが、それは、北東イングランドのほうが、インセンティブ、優遇措置がよかったようで、そちらも大きな港やよいサイトがあったらしいです。いずれにしても、その後、トヨタや電機メーカーとか、自動車部品メーカーとかが出てきたので、私は結構頻繁に、各メーカーさんといっしょに何回もイギリスに来ていたというのが、イギリスとの係わりです。

1983年、あ、もう30年前ですかね、、、(笑)しょっちゅう来ているうちに、海外でビジネスをやってみたい、独立してみたい、と思うようになり、イギリスにもネットワークもできたので、しかし、何の具体的な計画もなしに!(笑)、90年に会社設立しました。バブルがはじけましたが、まだ多少勢いはあったので、なんとかなるのではないかと。(笑)顧客になりそうな可能性があるところともいくつかコンタクトもあったので、行ってみないと分からないなと思いまして。冒険だと思って、ま、無謀とも!(笑)パーソナルなことですけど、子供もいなかったし、奥さんも働いていて、そういう意味では結構自由かなという状況で、もちろん、彼女は、それを言ったときに「え~。」「私はいっしょに行けない。」という反応でしたが、2人いっしょにイギリスにいったらとてもリスクだからということで、しばらく日本で彼女は様子を見ながら、私はイギリスで立ち上げをしながらスタートしました。で、なんとかいけそうになって、彼女は仕方なくイギリスにきてくれたのですけど。(笑)

廣綱:奥様、安心したのですね。(笑)

松尾:実際に来て、独立すると、サラリーマン時代と違いました。クライアントは逆に応援してくれる、個人に対して。そういう方々に支えられ、また、開発公社の仕事も、ロンドンにいるのだったら、ロンドンをベースにリテーナーでやってくれということになり、日本から来るミッションに対応したりして、ロンドンベースの日本企業に対してアプローチをする仕事があり、助かりました。ゼロでなくてよかったなと。(笑)最初は一人でやっていたのですが、今はオペレーションをしているのは10人ぐらいです。

最初の10年は手さぐり的なことがありまして、クライアントも、日本よりイギリスのほうが多かったかもしれません。まだまだ日本の勢いがあったので、日本関連ビジネス、コンサルティング、リサーチ、マッチメーキング等で、クライアントはイギリスの弁護士事務所、大手保険会社、公共機関とか、色々ありました。日本企業に対してもリテーナーベースで、イギリス市場での駐在代行というようなこともやっていました。少しずつ大きくなってよかったのですけれど、だんだん日本の景気がまずい状態になってきまして。。。要するに、イギリス系のお客さんがドンドン離れていってしまって、見捨てられていったのですね。(笑)

2000年になる前、98年・99年とかは、危機に陥りまして、もう資金もOver Draftをいつも使っていて。(笑)当時は家賃もそんなに高くなくて、場所はStrandという良い場所にあったのですが、当時はまだ安かったのです。今はもう当時の3倍とかですが。(苦笑)そういうコストとか、人も雇っていまして、私をいれて4人だったのですが、それがどんどん難しくなってきまして、2000年になった時、もう改善しない、または、改善する兆しが見えなかったら撤退すると思ってやっていたら、よい兆しが見えてきました。

それは、私はもともとリサーチ、市場調査をやっていたので、調査の仕事が増えてきたのです。調査というと、エネルギー関係とか、たくさんあるのですが、徐々に調査が増えてきて、口コミで「安い割にはクオリティーがいい」ということで、続いてきました。それで今は調査がほぼ100%、特に産業調査が多いです。最初はイギリスの調査が多かったのですが、今は欧州全域で、中東とか、ロシアとか、例えば、欧州企業のトルコ参入とかの事例調査とか、それがアフリカになったり、インドになったり色々なのですが、クライアントは、在日日本企業、さん、出向されている経産省関係の人たち在欧日本企業、役所関係などからお仕事をいただいています。お客さんは(欧州)大陸のほうが多いです。

お陰様で、2000年に(日本に)帰らなくてよくなりまして(笑)、少し上り調子になってきましたが、それからリーマンショックがあって、すぐに大打撃にならなかったのですが、ぼやぼやしていると先細りだなと。それで、ドバイとニューデリーに会社を作りました。結論からいうと、まだうまく行っていないのですけれど。(笑)2010年から準備をはじめて、2011年に会社を設立しました。何もなければ冒険にならないのですが、(笑)ドバイのほうは結構お客さんから、来てくれというのがありました。また、(インドのほうは)現地に30年来の親友、元インド政府の財務省の高官で、彼はもうリタイヤしているのですが、お前がやるのだったら私も手伝うという形で、行ったのですね。スタートの仕事はありそうだと。

結論からいうと、UAEに関しては結構受注はあったのですが、なかなか利益がでない。というのは、調査は難しい。中東の仕事となると、湾岸6か国、各国の調査をしなければならない。つまり、既存データがヨーロッパのようにはそろっておらず、言葉もアラビア語で英語の情報が少なすぎる。だから、アラビア語ができる人を雇わなくてはならない。あるいはアウトソースしなければならない。インタビューのアポイントメントもなかなかとれない。コネがないと難しい。もし、とれたとしても、その人が本当のことをいうかは分からない。(笑)だから、二重、三重にアポイントをとらなければならない。とてもコストがかかるのです。何のためにやっているのかな?ということになりました。 結局は、ドバイのオフィスはクローズしましたが、今は遠距離注文をもらっています。ロンドンチームでできるものはロンドンチームでやり、また、現地アウトソースをしたりします。 当時は、中東ではじめての日系のリサーチ会社が来たので喜ばれ、ニーズはもちろんあると思うのです。というのは、現地(アラブ系、インド系等)はフィーが高いので、「高かろう、悪かろう」で。(笑)

廣綱: